「歌月十夜」(present by TYPE-MOON) シナリオ 『「夢十夜」朱い月』 ---------------------------------------------------------------------------- ————星が近い。  深い山間の空は高く浅く、手を伸ばせば星に届きそうなほどに澄んでいた。  これほど天体に近い土地は他に類を見まい。  高地ではあるが、単純に高みを競うならば他に何十と標高を誇る土地もあろう。  この地が天に近い理由はそのような事ではなく、この地こそが彼らが発生する地点であるからだ。  時に、月の姿は神々しくさえある。  頭上を覆うほどの月は天蓋のようでもあり、その巨大さは一種の怖れを抱かせる。  古人は言う、月が落ちてくるのではないか。  曰く、世界の終わりである。  その恐れは荒唐無稽な物ではなかった。  何故ならこの土地に現れた原初の一は、まさしく終わりをもたらす為に呼び出されたモノだからだ。  だが、ここに世界は終わらずにいる。  我々が築いた世界像は、星が思い描いた世界像を遥かに凌駕する強靭さを誇ったが故に。 —————朱色の月は涙する。  長い闘争になると悲嘆する。  だが滅び新月になろうとも終わりではない。  何故ならこの地上全ての生物が敵に回ろうと。  一つ、絶対とも言える時間だけは、  彼の協力者であるが故に———  月が近い。  ふと、この土地はあの天体に繋がっているのではないかと思い立った。 ————それは、核心ではなかったか。  彼らは自然の触覚として生み出されたという。  だが、その雛型である原初の一は何者であったのか。  星は人に似せて彼らを作った。  だがその以前。真祖などという触覚を生み出そうとした発端はなんであったのか。  彼らが月の影響を受けるその原因。  完全である筈の彼らが不完全である理由。   『REAL OF THE WORLD』  星をかつての姿、真世界に戻すのが彼らの目的だ。  だが鏡のない星に、果たして自らの基準を定める事は出来るのだろうか。  鑑定者は何処にいる。  天体の死を理解しえるのは、やはり、同じ天体だけではないのだろうか?         頭上には朱い月。   それは血を流す瞳のような、遠く近い観測者。  おかしな感覚で目が覚めた。  自分が自分であるのに他人のような感覚。  遠野志貴という自分がミハイル・ロア・バルダムヨォンという人間の皮を被っているかのような。  些細な違和感が眠りを阻む。  自身が自身でありながら他者だと認識している。  ミハイル・ロア・バルダムヨォンという自身が、遠野志貴という人間の意識に宿っている。  どちらかが主体であるかというのならば、それは紛れもなく私だろう。  何故なら、これは私の記憶を元にした世界であるからだ。  だが私ではこれほど感傷に長けた回想は為し得まい。  故に、この世界は俺の世界という事になる。  私であり、おまえでもある。  ならばこれは夢だ。  過去であり未来であり逸話でしかありえない話。 ———そうか。夢というのならばそれもよかろう。  この狭間でたゆたう時間などおそらくは一瞬だ。  閃光ともとれる出来事ならば既知感として認識し、刹那に忘却される矛盾にすぎない。  余分な時間ではあるが、問題視するほどの浪費ではないだろう———  宛がわれた部屋には窓がなく、  月の姿は望めなかった。  山間に佇む城はひたすらに無音だ。  この城の住人たる彼らも、彼らに仕える死徒たちも、それが美徳であるかのように気配を殺し感情を殺している。  それは、私にとって至極心地の良い物である。  私は教会の使者として訪れた。  堕ちた真祖を処罰する為、教会は秘密裏に彼らに協力を要請———いや、強請と言うべきか——し、彼らもまた、進んで教会に協力した。  すでに世に蔓延する堕ちた真祖の数は十余名。  真祖たちだけで手におえる数ではなく、教会だけで対抗しえる異端でもない。  彼らは教会の組織力を必要としており、教会の司祭という肩書きを持つ私は快く迎えられた。  くわえて言うのならば、私は異端審問を特化させた機関の立案者であり体現者である。  彼らは、ともに堕ちた真祖を敵とする協力者として私を信用しきっていた。  だが、私はすでに僧籍に身を置く者ではなくなっている。  この城を訪れた目的は彼らの思惑とは対照とさえ言えるだろう。  私は新たな魔王を生み出し、その恩恵にあずかる為に現れた。  私の探究は、人の身では不可能な地点まで到着してしまった。  その先に進む方法を得る為に、私は、死徒と呼ばれる吸血種に成らなければならない。 ————夜も更けた。  それでは、件の姫君を拝見するとしよう。  真祖殺しの真祖が生み出された、という噂があった。  しかもブリュンスタッドの名を冠するという。  ならばそれは真祖の王族であろう。  実際、その真祖殺しの真祖はすでに三つの魔王をたやすく処罰し、その姿は何人かに確認されている。  それは金の髪と瞳をした、真祖には稀といわれる女性体であるという。  だが教会はいまだ彼女を実在のモノと扱ってはいなかった。  当然だろう。教会は常を守る者、朱い月と同規模の超越種の台頭など、そうたやすく認める事などできないのだから。  だが、それが紛れもない事実である事は疑いようがない。  先代の王が消滅したおり廃墟となったこの城。それがこのように蘇生したのが何よりの証拠だ。  千年の城は新たな創造主の息吹により復活した。  彼らは実に六百年ぶりに故郷を取り戻し、絶対の守りである城の中で安息の日々を貪っている。  城は新たなブリュンスタッドの心の在り方でもある。  しかし。  私が訪れた城は、決してこのような錆びた城ではなかった。  あの時代。  まだ私が姫君と関わる前、城は白く清らかであり、どこまでも無垢で無知であった。  庭園には花が咲き誇り、風は正常に循環していた。 だが、これはどうした事だ。  錆びた城壁。  無人の回廊。  風は途絶え、庭園は荒れ果て、城の至る所に鎖が張り巡らされている。  明らかに異状だった。  先日までは静かではあるが彼らが存在し、城は生命に溢れていた。  だが今では生きているのは私だけだ。  城に集まった真祖は全て死に絶えている。 > □城  酷く、寒い。  玉座への扉は閉ざされている。  外壁から伸びる鎖は全てが玉座へと収束している。  窓があり、  玉座が望めた。  閉ざされた扉の向こうこそがこの城の心臓だ。  冷気は心臓部より生み出され、城全体を凍結させている。  玉座を見下ろした。 saveoff btndef "image¥event¥yume_e12.jpg" ~ blt 0,%2100,640,960,0,0,640,960 saveon  それは玉座ではなく牢獄だった。  そうとしか見えなかった。  枷は重く。  咎は深く、  咎は深く、  縛鎖は荊の冠となり、独りの姫君を称えている。  ……あれほど。  かつてあれほど私を堕としめたそれは、生きながら腐っていた。  見る影すらなかった。 ————これがその結果か、ロア。  おまえにもそう見えるか。  そうだ。これが私の結果だ。  だがそのような些事に煩う時間はない。  私の目的は彼女ではないし、もとよりコレを解放する手段など私にはない。  玉座は北天。  錆色の終焉は続き、やがては彼女自身をもぎ取るだろう。  鎖の軋む音が城中に木霊する。  私には、彼女は救えない。  そう言うのならばかまわない。  アンタが出来ないっていうんなら、俺が外に連れて出してやる。  それもよかろう。  この姿の姫君が救われようと救われまいと、私になんら影響を与える事ではない。  だがこれが我らの接点であり境界である事は否めない。  千の縛鎖。  繋がれた白い姫君を境にして、私と俺は背反する。  それではしばしの間。  有り得ざる刹那に、お互いの一日を始めよう。  宛がわれた部屋には窓がなく、  月の姿は望めなかった。  山間に佇む城はひたすらに無音だ。  この城の住人たる彼らも、彼らに仕える死徒たちも、それが美徳であるかのように気配を殺し感情を殺している。  それは、私にとって至極心地の良い物である。  城の様子は一変していた。  人が消えた建物は速やかに逝く。  彼らは死に絶え、城も同じく活動を停止したという事だ。  中庭に足を運ぶ。  噴水は枯れていた。 【ブリュンスタッド】 「——懲りぬ男だ。未だこの城に残っていようとは」  それは、玉座に繋がれた真祖の姫ではなかった。  彼女は今でもあの間に繋がれたままである。  これは彼女の内面に潜む、彼女と融け合う事を待っている彼女に他ならない。 「はじめましてブリュンスタッド。こうしてお話をする機会が回ってくるとは思いませんでした。なにしろ貴方があの様子では、受け継ぐのは姉君ではと危惧していたものですから」 【ブリュンスタッド】 「口が達者なのは変わらぬようだな司祭よ。では、その口でアレを解き放てるかどうか試してはどうだ? アレに血を飲ませた貴様なら、或いは容易く鎖を解く事ができるかもしれぬ」 「謹んでお断りいたしますよ。そも、あの鎖を解いてどうしろというのです。私には彼女を御する手段などありません」 【ブリュンスタッド】 「だが参考にはなろう? 貴様の方法ではいずれ純度が保てずに破綻する。人間の霊体は肉につまっていなければ外気には耐えられぬモノ。いかに死徒へと変貌しようと、元が人であるかぎりその磨耗は避けきれぬ。  ならばこの身と同じく後継を用意しておくべきであろう。我が肉体と同域の後継が発生した場合のみ、朱い月は憑依する。アレが堕ちれば間違いなくこの身がアレを支配しよう。この法式ならば貴様のように無為に数を重ね、簡略化する事もない」 「お言葉ですが、私の目的はその簡略化です。自己などという余分なモノは削ぎ落としますし、影響を及ぼすものは最小限に留めたい。  ブリュンスタッド。貴方のように、死してなお外界を侵食する意志など残しておきたくないのです」 【ブリュンスタッド】 「ほう、中々に言うものだ。貴様はこの身が何者であるか理解しているというのか」 「理解などしてはいません。私が知っている事は、貴方の工場はあまり性能がよくないという事だけです。貴方が究極の一として誕生した後、貴方に続いて生み出されたモノたちはあまりに不完全だった。  上手くいったのは貴方という最初だけで、あとの真祖はみな失敗作にすぎなかったのでしょう? ですから貴方は手を加える事にした。ただ必要に応じて発生する現象でしかない真祖を、真祖たちの手で生み出すように教えを広めた。  理由は一つだ。貴方は、貴方と同じ純度の真祖がどうしても必要だった」 「——————よいぞ。続きを申せ」 「つまり貴方の寿命が尽きかけていたという事です。寿命という観念のない真祖にとって、死とは外的要因によるモノでしかない。  貴方は敵が多すぎた。  通常、真祖は自然霊の一種として容認される。故にアラヤの怪物も、霊長の敵対者である筈の真祖においそれと手を出さなかった。  ……真祖は霊長の敵対者である前に、自然との調停者でもありますからね。我々の無意識は真祖という化け物を否定しつつ容認している故、アラヤの怪物は真祖を抹消対象に捉えなかった」 「しかし、オリジナルである貴方は別だ。  朱い月はガイアでもアラヤでもありえない。故にどちらにでも修正されると予感した貴方は、いずれ訪れる消滅に備えて肉体を用意するしかなかった」 「もっとも、真の祖たる貴方がまさか人間に敗れるなどとは思ってもいなかったでしょう。  貴方は魔法などというルール外のルールを学ぶのが遅すぎた。故に宝石のご老体に後れをとってしまった訳です。  その予想外の出来事で、貴方は後継者の完成を前にして消滅してしまった。 ——この世界に“自らを潜在させる真祖という種”が生まれる固有結界を残して」 【ブリュンスタッド】 「………………………」 「もともと二十七祖などというモノも貴方が足掻いた足跡にすぎない。どうしても自身と同じ純度の真祖が生まれず、貴方は様々な手段を試みた。  その結果の一つがアルトルージュ・ブリュンスタッドですが、彼女もいまだ朱い月を迎え入れるまでの高みにまでは達していない。……いえ、ガイアの怪物を従えている以上、ある意味朱い月以上の怪物ではありますが彼女自身はあまりにも不安定だ」 「そうして皮肉な事に、貴方が諦めていた自然発生の中で待ち望んでいた者が生まれた。  朱い月亡き後、朱い月が失敗作と蔑んでいた真祖たちは、朱い月がなしえなかった完全な素体を作りあげたのです。  それがアルクェイド・ブリュンスタッド。  もっとも、彼女も自らを縛するが故に貴方を迎え入れる段階まで進んでいないようですが」 「面白い。では、貴様はこの身をなんと見ておる? アレが朱い月を迎え入れておらぬというのであらば、この身は朱い月ではないと申すか」 「当然でしょう。あらゆる真祖はその内面に朱い月を受け入れる為の個所を設けられています。それが貴方の作り上げた法則ですからね。  ですがそれはあくまで朱い月としての側面にすぎません。全ての真祖は朱い月の分身であり、同時にまったくの別個体でもある。故に、こうして私と話をしている姫君はアルクェイド・ブリュンスタッドの影にすぎない。 ———君はいまだ朱い月に決定したわけではありません。  アルクェイド・ブリュンスタッドがアルクェイド・ブリュンスタッドと呼ばれているかぎり、君は朱い月に成る事なぞないのです」 「ふむ。貴様の弁が真実であるのならば、確かにこの身がこうして存在するのは道理だ。  ……なるほど、この身は可能性があるというだけの虚像なのだな。身の程を知らぬはこの身であったか。それでアレを支配するなどとよくも言ったものだ」 「いえ、そう悲観する事はありません。アルクェイド・ブリュンスタッドが鎖に繋がれているのであれば、いずれ彼女は自らの名前を放棄するでしょう。  そうなればカラになった体は貴方のモノになる。貴方は私に彼女を解き放てと言いましたが、それは反対です。朱い月の転生を確認するのであれば、彼女はあのままにしておくのが正しい」 【ブリュンスタッド】 「そうか。————貴様では、あの鎖を解く事はできぬのか」 「はい。私では彼女を解き放つ事はできません」  姫君は去っていった。  噴水は枯れている。  ここに私が求めるものはなく、客室に戻る事にした。  宛がわれた部屋には窓がなく、  月の姿は望めなかった。  山間に佇む城はひたすらに無音だ。  この城の住人たる彼らも、彼らに仕える死徒たちも、それが美徳であるかのように気配を殺し感情を殺している。  それは、俺からしてみると居心地のいい物ではなかった。  城の様子は相変わらずだ。  絶望で塗り固められた城壁は重く聳え立ち、閉ざされた門からは一凪ぎの風さえ入ってこない。  いつだったか、これと同じ夢を見た。  悲鳴のように響く足音をたてて、聖堂へと歩いていく。 □城  玉座を覗く展望。  凍りついた聖堂に彼女はいた。 「やあ」 【ブリュンスタッド】 「おぬしか。懲りずによく現れたものだな。それもあのような者まで連れてきおって」 「迷惑だったのなら謝るよ。けどアイツがいないと俺にはこの場所への接点がないんだ」 「そうであったな。おぬしはもとよりこの城に関わる者ではない。ならば早々に立ち去るがよかろう。もとより、おぬしはこの身には用がないのであろう?」 「———いや、そういう訳でもないんだ。前は何か話が足りなかった気がする。だからこうして続きを見ようと努力したんだぞ」 「……解らぬな。話が足りなかったとはどういう事か」 「どういう事かって、ようするに今回はおまえに会いに来たんだってコトだろ」 【ブリュンスタッド】 「——————————」 【ブリュンスタッド】 「やはりあの男と共融しているだけはある。人間というモノはほとほと巧く囀るものよ」 「……さえずるって、あのなあ。どうしてそんなに偉そうなんだよおまえは。俺はお世辞を言ってるわけじゃないし、嘘だって言ってないぞ。おまえに会って、そのすました顔をどうにかしてやろうって来ただけなんだからな」 「ふむ、そうであろうな。おぬしがそのように器用な人間であらば、アレはおぬしを殺めていたであろう。知ってはいたが、なるほど、アレはこのような無礼者と過ごしておるのか」 「———むっ。なんだよ、無礼者はお互いさまだろ。だいたいなあ、おまえこそ口より先に手を出しやがって、何がお姫様だってんだ。もうちょっと慎みを持ったらどうだ。なんかあるたびに頭殴られてちゃあな、寿命でくたばる前におまえに殺されちまうだろうが」 【ブリュンスタッド】 「馬鹿を申せ。おぬしが言っておるのはアレの事であろう。ならばこの身に抗議する事ではない。アレへの不満は本人に言うがよい」 「だから本人に言ってるんだよ。おまえはアルクェイドじゃないか」 【ブリュンスタッド】 「———まったく、愚かな人間だな。何度忠告すればよいのだ。この身はアルクェイド・ブリュンスタッドの持つ側面に過ぎぬ。おぬしの知るアレとは違うものだ」 「知ってるってば。けどアルクェイドの側面なんだろ? なら一緒だよ。  偉そうにしていようが髪が長かろうが、それとまあ、俺の事を知らなかろうが関係ない。  おまえがアルクェイドの一部だっていうのなら、それは紛れもなくアイツって事じゃないか」 【ブリュンスタッド】 「————————」 「なんだよ。おかしなコト言ったか、俺」 「うむ、申した。おぬしは、私を驚かせておる」 「……?」 「そうであろう。この身が私ならばおぬしには都合が悪いのではないか? おぬしが求めておるモノは鎖に繋がれておるアレであり、こうしている私ではないのだから」 「ああ……まあ、確かに俺が知ってるアルクェイドはおまえじゃないけど」 「であろう。ならばなぜ私を容認するような言を口にする。それはおぬしの目的とは矛盾するではないか」 「そうなの? 矛盾するのか、コレ?」 【ブリュンスタッド】 「————するに決まっておる。アレを繋ぎとめているのはおぬしだ。アレにとって唯一の味方であるおぬしが敵である私を認めれば、朱い月が近くなるは道理であろう。  おぬしはな、自らの手でアレを私に明け渡そうとしているようなものなのだぞ」 「ああ、そうなの? けどまあ、問題はないんじゃないかな。その時になったらその時だし、俺は俺の知ってるアルクェイドを奪い取るだけなんだから」 「———それは私と戦う、という意味か」 「おまえと戦う? アルクェイドを救いたいのにアルクェイドと戦うなんてそれこそ矛盾していないか?」 「ええい、判らぬヤツ。アレを求めるという事は私と戦うという事なのだ。それともこう申すのか? おぬしはアレを、過去よりあの縛鎖に繋がれたままの、アルクェイド・ブリュンスタッドを救えるのだと」 「ああ、救えるよ」 【ブリュンスタッド】 「———————————」  静寂。  そうして微かな、けれど絶対的な隔たりの亀裂を挟んで、彼女は言った。 【ブリュンスタッド】 「———ここは過去である。おぬしがいるべき世界ではない故、二度と現れてはならぬ。 【ブリュンスタッド】  さらばだ人間。そなたの言が、道化にならねばよいのにな」  ひっそりと願うような響き。  それは気高い彼女が彼女を裏切る、拙い願いのようだった。  では、正当な記憶に戻ろう。  宛がわれた部屋には窓がなく、  月の姿は望めなかった。  山間に佇む城はひたすらに無音だ。  この城の住人たる彼らも、彼らに仕える死徒たちも、それが美徳であるかのように気配を殺し感情を殺している。  その静けさに異変が生じた。  無音はさらに無音へと深まっていく。 ———城の主が、戻ったのだ。  それは王の帰還を祝う静けさではなく、異端の帰還を怖れる静けさである。 ———どうやらまどろみもここまでのようだ。  私にとって、この城における最後の記憶がやってきた。  おまえはそこで見ているがいい。  ……夜も更けた。  では、我が姫君へ謁見に行くとしよう————  月は青く、星々を飲むように明るい。  風はさながら血液のように城という城を駆け抜けている。  私たちは憑かれたように歩いている。  私も俺もその光景を知っていたからに他ならない。  その姿を知っている。  永遠に網膜に焼き付けられた光景。  決して忘れえぬ月下の姿。  私を純粋ではなくした魔。  白い月の庭園で、白痴のように、ただ———— ——————ただ、美しすぎたその姿を。  そこには全てがあった。  私が求めていたものを凌駕する全てが。  だが若い私は頑なで、  それを受け入れる事も、  理解する事もできず。  ただ、憎しみだけを武装した。  後悔などという念は皆無だ。  私は求め、自らの全存在をかけてそれに抗った。  そこに間違いなどありえず、私は望むモノを手に入れた。  その代償に、私は此処で彼女を穢す。  俺は其処で、穢れた彼女を癒すがいい。  私は必ず彼女に出会おう。  俺は必ず彼女に出会う。  それが約束されたものであるのなら、たとえ結末を知っていようとも躊躇う事など何もない。  私は歩き出す。  彼女は不思議な物を見るように私を見る。 ———舞い散る花弁が、一つの終わりを告げていた。  天を仰ぐ。  螺旋の空には、血のように朱い月だけが———  その廃城には罪人が囚われている。  千の鎖に繋がれて、真祖の姫は眠り続ける。  ついぞ見る事のできなかったこの光景を見つめて、夢から醒める事にした。 ————それではごきげんよう姫君。     もし再会が叶うとしたら     見知らぬ土地の見知らぬ時間、     忌まわしい太陽の下で会いましょう————